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松本紘先生とのこと

2025年6月28日

2025年6月15日、京都大学の第25代総長だった松本紘先生が亡くなられた。

松本先生は、研究者としては宇宙空間プラズマの研究が専門で、太陽物理の研究をしていた僕から見ると隣接分野になるものの、世代が離れていることもあり、専門の研究上で接点があることはあまりなかった。ただご縁があって2年くらい松本先生の近くで仕事をさせて頂いたことがある。「学問は真実をめぐる人間関係である」が持論なだけあって、元々人間関係にマメな人だったのもあるだろうが、仕事上で直接関わることが減ってからも時々電話をくれたりして、少しは気にかけてくれていたと思う。

とはいえ松本先生との距離が特別近かったわけではないし、もっといろいろな思い出話を語れる人はいくらでもいるのだろうけれど、この下に書くように松本先生としていた仕事はちょっと特殊で、僕自身の松本先生との思い出はほとんど誰とも共有していないので、忘れてしまう前に書いておこうと思った。主として自分のために。

始めて会ったのがいつだったかははっきり覚えていないが、僕はまだ大学院生、松本先生は京大生存圏研究所、またはその前身の一つである宙空電波科学研究センターの教授をされている頃のはずで、宙電研/生存研のある宇治キャンパスでの研究会か何かに出た時だったと思う。当時はなんだか強面の人だなと思ったくらいで、その後深く関わるようになるとは思ってもみなかった。

松本先生と仕事の上で直接関わるようになるのは、博士号取得後、学振PDを経て、京大に新設された宇宙総合学研究ユニット(宇宙ユニット)の任期付教員として京大に戻ってからのことである。宇宙ユニットへの着任は、それまで宇宙物理の研究だけをしていた僕が人文社会系を含む学際的な研究をやるようになった直接のきっかけであり、自分の研究者人生の中でもっとも大きな出来事の一つであったが、その宇宙ユニットの設立自体に松本先生が関わっている。

2008年4月から8月まで、京大総合博物館で「京の宇宙学−千年の伝統と京大が拓く探査の未来−」という企画展が開催されている。これは京大で行われている様々な宇宙研究を紹介するもので、理学研究科、工学研究科、生存圏研究所、基礎物理学研究所など京大内の様々な部局の研究者が協力していた。その打ち合わせの場で当時は理事・副学長になっていた松本先生が、京大にはこれだけ多様な宇宙研究者がいるのだから、理学系と工学系の枠を超えてもっと連携すべきである、近々テーマごとに部局を横断して教員が緩やかにつながる「ユニット」という仕組みが京大にできる予定なので、ぜひ宇宙のユニットを作ってはどうか、という提案をしたらしい。それを受けて、初代ユニット長になった小山勝二先生(X線天文)、僕の大学院の指導教員でもある柴田一成先生(太陽宇宙プラズマ物理)、松本先生の後任としてJAXA宇宙研から生存研に着任されていた山川宏先生(宇宙システム工学)らが中心になって設立したのが、宇宙ユニットである。この企画展の準備が進んでいた2006~2007年頃はちょうど僕が京大を離れていた時期なので、以上の経緯はのちに柴田先生から聞いたもの。

松本先生の思い出話からは少しずれるが、設立当初の宇宙ユニットには、理学研究科、工学研究科、生存圏研究所、基礎物理学研究所、人間・環境学研究科、総合博物館の6部局から宇宙に関連した研究をしている常勤教員が参加していた。参加といっても当時のユニットはとてもゆるい組織だったので、参加メンバーとはHPに名前が乗りメーリングリストに登録することを承諾した人というだけである。当初はいわゆる理学か工学の人のみで、人文社会学系の教員は一人もいなかったのだが、初代ユニット長の小山先生も二代目ユニット長となった柴田先生も、当初から人文社会系を入れることを重視していた。

京大にいなかったので宇宙ユニットの設立までの動きはよく知らないが、結構バタバタしてはいたようで、発足のほんの3ヶ月ほど前になる2008年の正月、岡山の実家に帰省している時に柴田先生から携帯に着信があり、正月早々なんだろうと思いながら電話にでた。曰く、今度京大に宇宙ユニットという新しい組織を作ろうとしており、そのためには外部資金で1名、専任の任期付教員を雇用することが条件となっている。外部資金については当面は柴田先生が持っていた宇宙天気関係の大型科研費を充てることができ、それは磯部君の研究テーマと重なるので太陽物理の研究はもちろん続けてもらえるが、このポストは人文社会系を含む学際的な共同研究をコーディネートすることも重要な仕事であり、その意味では自分の専門研究だけしていればいいというポストではない。それで良ければ来て欲しいのだがどうか、という打診だった。当時は次のポストとしてJAXAのプロジェクト研究員が決まっていたのだけれど、2秒くらい考えて「行きます」と返事した。結局、宇宙ユニットの発足の手続きは2008年度の始めにギリギリ間に合わず、4月の1ヶ月間だけ理学研究科付属天文台の研究員として雇って頂き、5月の宇宙ユニット発足に合わせて特定助教として着任することになった。

思い出話ついでに。ユニット長だった小山先生は、柴田の弟子である僕が、専門の太陽やプラズマの研究の方はもちろんやるだろうが、学際的で新しい宇宙研究を始めるという宇宙ユニット本来の仕事の方にはそれほどモチベーションを持たないのではないかと当初思っていたようだった。僕がかなりの情熱をそちらに向けるようになったのは意外だったかもしれないが、その結果としていくつかの新しい研究プロジェクトを立ち上げることができたことは評価して下さっていたと思う。小山先生も柴田先生も、その後の歴代宇宙ユニット長の方々も、研究面で僕がやることに口出しすることはほぼなく、必要なときにはいつもサポートしてくれた。そのことはとても感謝している。

話を戻すと、松本先生は宇宙ユニットが設立した2008年の後期から京大総長になった。その時期はちょうどJAXAが大学との連携強化を進めていて、宇宙ユニットの発足とほぼ同時にJAXAと京大は包括連携協定を結んでおり、その連携において宇宙ユニットが理学と工学をまとめた京大側の窓口を務めることにもなっていた。このため当時は京大-JAXAの機関間連携の仕事も色々と担当していた。この手の連携においては、大学執行部では理事クラスが担当することが多いと思うが、松本先生が宇宙の人だったこともあり、京大-JAXA連携においては総長自らが会議に出てくれることも多かったため、仕事で時々松本先生と顔を合わすようになった。その頃受けていた印象は、硬軟織り交ぜて交渉する政治家だなあといったところ。

専任教員を雇用することが課されていたため、宇宙ユニットは継続のために外部資金を取り続ける必要があった。当時の僕は常に将来の保証はない状態ではあったけれど、宇宙ユニットが面白かったし意味があることをやっているという確信もあったので、任期付の間も他機関の公募に応募することはなく、代わりに柴田先生たちと一緒に宇宙ユニットを継続するための外部資金の確保に力を入れていた。(唯一、採用されても宇宙ユニットの活動は続けられそうな京大白眉には応募して、松本総長との面接までは行ったが不採用だった)。結局柴田先生の大型科研費の後は、JAXA宇宙研との共同研究で4年間資金を確保し、幸いにもその成果を受けた概算要求(特別経費)が通って、2014年からは国の運営費交付金が宇宙ユニットに着くようになった。この経費はその後基幹化したので、それをもって宇宙ユニットはいわば恒久的な予算を確保したことになる。ユニットという組織形態が時限的な組織として想定されていたこともあり、宇宙ユニット自体は2024年度中に終了したが、基盤的予算を持っていたこともあり、学際的宇宙研究は理学研究科の学際融合部門に引き継がれた。色々あったけれどちゃんと後に残るものができてよかったと思う。

JAXAとの共同研究でつなぎながら概算要求を出していたころは、宇宙ユニットの存続もかなり危うい状態ではあり、僕の雇用経費が切れることを心配した柴田先生がある時松本先生に相談してくれたらしい。ちょうどその頃日本の宇宙政策が転換期にあり、国の宇宙政策の司令塔が文科省から内閣府の宇宙戦略室に移され、そこに新たに設置された宇宙政策委員会のメンバーに松本先生が選ばれていた。今思い返してもこの委員会は、政府が作った政策にちょっとした意見を述べるといったものではなくて、本当に日本の宇宙政策を大きく動かしていたと思う。松本先生としては、これは京大の総長としても非常に重要な仕事で、会議に出て適当にコメントすればいいようなものではない思っていたようで、総長裁量経費で学事補佐として僕を雇ってくれることになった。宇宙政策委員会に松本先生が出席するときには陪席し、出られないときも僕だけは委員会を傍聴して内容をブリーフィングし、松本先生が意見を出したりプレゼンをしたりするときの情報の取りまとめや資料作成を行うというのが最優先の仕事で、それ以外の時間は宇宙ユニットの上部組織である学際融合教育研究推進センターの特任准教授として、宇宙ユニットを含む京大の学際的な教育研究の推進をするという立場だった。後者の仕事に関しては、松本先生は時々様子を聞いてきたくらいで特に指示を出したりすることはなかったと思う。

そういう経緯で、総長学事補佐として1年半ほど、多いときは毎週のように主に東京で松本先生と会う生活を送った。このときが一番密に松本先生と接していた時代である。カバン持ちをしていたわけではないので京都―東京間の移動は基本的に別々だったが、会議のある官公庁のビルの前で待ち合わせをして会議に出て、その後に一緒に食事をしたり他の人との会合に陪席したりすることはよくあった。

当時の宇宙政策委員会と宇宙戦略室は日本の宇宙政策をかなりラディカルに転換しようとしていて、実際それを実現させていた。その中で松本先生はどちらかといえばご意見番的なスタンスに徹していたと思う。松本先生が委員として在籍している間に日本の宇宙政策は安全保障重視に大きく舵を切っており(特に2015年の宇宙基本計画の改定)、松本先生はそれにはどちらかというと慎重な立場ではあったが、自分の意見は意見として言うものの、様々な根回しや工作をして強引に自分の意見を政策に反映させようとすることはなかった。

ある日、予定より早く委員会が終わって夕方早めに東京で空き時間ができたとき、松本先生はおもむろに携帯を取り出して、「松本です。元気でやってますか。今東京にいるんだけどよかったら飯でもいきませんか」などと誘いの電話をかけ始めた。そのときは相手の都合が合わなかったようだが、電話を切ったあと「今のは人事交流で京大から中央省庁に出向している職員や」と教えてくれた。そして「磯部くん、京大からこっちに来ている若手の職員は、もう京大が自分のことを見てないんじゃないかと思うやろ。だからこういう機会に一緒に飯に行ったりして、京大はちゃんとあなたのことを見てますよということを伝えるんや」と話した。その時の僕の感想は、心遣いに感動するというより「この人こうやって偉くなったんか…」というものだった。後で他の人から聞いた話だが、松本先生は京大職員の中にもファンが結構いて、松本先生から電話がかかってきて盛り上がったりすることもあったらしい。アンチも多いがファンも多い理由がわかった気がした。この辺も松本先生の政治家っぽさの一つだと思う。

会議や交渉の場では強面で厳しいところも見かけたが、僕個人は松本先生に怒られたことはない。総長裁量経費で雇われている間は総長の補佐が最重要業務なのでいつでもそれを優先するつもりではいたけれど、過大な業務を振られることはなく、学際センターと宇宙ユニットの方も頑張りなさいという感じだった。ボスっぽい風貌の人ではあるし、取り巻きみたいなのがいそうなイメージだけど、若者を子分として囲い込むタイプではないんだなと当時は思った。それは単に僕をそういう風に扱わなかっただけかもしれない。

子分扱いはされなかったが、なんとなく育ててくれようとしていると感じたことはある。例えばあるときは、「磯部くん、自分より5歳から10歳若い官僚と仲良くなっておきなさい。官僚は研究者より出世が速いので、君が教授になった頃に彼らは課長クラスになって色々な裁量を持つポストにつくから、その時に協力できる人脈を作っておくんや」などと言われた。それを言われた僕の心の中は「うわこれ、帝王学を仕込もうとしてる?ネタにしたいけどさすがにツイッターには書けないな…」というもので、鍛えがいがなく松本先生には申し訳ない限りだが、それでも社会勉強としては面白かった。結局、松本先生からのその手の教えを実践することはあまりなかったけれど。

これは明示的に言われたわけではなく雰囲気や言葉の端々から察しているだけなのだが、松本先生は、専門である宇宙空間物理学・宇宙電波工学では立派な業績を残されているけれど、学者として、一つの分野には収まらない、もっと大きな仕事をしたかったという思いがあったのではないかと思っている。確立したディシプリンの中で評価される成果だけを追求するような学問のあり方への疑問はよく口にしていたし、学問は学問のためだけにあるのではなく人類のためになるべきものだという考えの人でもあり、京大総長や理研理事長としての仕事はある意味でそれを実現しようとしていたのかもしれない。学生時代は日立に就職して社長になろうと思ってたという話もしていたので、京大や理研のような組織のトップになることはご本人が望んでいたことでもあっただろう。ただ、組織のトップとしてできることは大きいけれどどうしても間接的になるので、学者としてもそういう方面で大きな仕事をしたかったとどこかで思ってはったんじゃないかな。そして、自分の弟子ではないけれど、僕に対してはそういう方向で頑張れよと思ってくれていたんじゃないかと、勝手に思っている。はっきりと言われたわけではないので、そんな気がするだけ。

そういう松本先生の学問に対する思いには共感するところもあったが、松本先生自身が既存の学問分野を超えた何かを言わんとした時にでてくる内容が瞠目するようなものだったかというと、まあそうでもなかった。故事成語を引いたりするのが好きな人ではあったけど、何か学問的な深みを感じさせるようなものではなかったと思う。ご本人もそれは分かっていたんじゃないかと思うが、そもそもすごく深く含蓄のあることを言いたいタイプではなく、どちらかというと伝えたいメッセージは大体シンプルで、そのレトリックとして画数の多い漢語を使うのが好きだったんだろう。そのレトリックが有効な場面もあったのだろうけど、大学、とくに人文系の人たちにはあまり響いてなかったんじゃないかな…知らんけど。

2014年度から概算要求による宇宙ユニットの事業が始まって、僕は特定准教授として再び宇宙ユニットの専任に戻ったが、宇宙政策委員会の補佐の仕事はその年の秋に松本先生が総長を退任されるまでは続けた。京大総長退任から理研理事長に着任する間にも東京で会った記憶があるので、退任されてからもちょっと手伝っていたのかもしれないが、この時期僕もめちゃくちゃ忙しくしていたのであまり覚えていない。東京であった時に、松本先生が総長時代からの自分の血圧のデータをグラフにして、総長時代はずっと上がってたけど総長やめたらこんなに下がったわ、と見せてくれたのを覚えている。半年後に理研の理事長になってからまた血圧が上がったのかどうかは聞いていない。

僕が宇宙ユニットの専任に戻ったのは1年だけで、2015年度に京大内で異動して総合生存学館の准教授になった。ここは博士課程教育リーディングプログラムに採択された「思修館プログラム」の実施母体として2013年に設置されたばかりの新しい大学院で、人類の生存に関わるような地球規模課題の解決のためにあらゆる学問を総合して取り組み、学術的な研究だけではなく実際の課題解決に向けた研究の社会実装にも取り組み、アカデミアだけでなく国際機関や民間企業で活躍する人材を輩出するという、大変に高い目標を掲げていた。その設計には当時総長だった松本先生の考えがかなり反映されている。

僕が採用されたときの教員人事はオープンな公募ではなく、京大内で適当な人を探していたようで、当時学館長だった川井秀一先生に声をかけて頂いて、学内限定公募に応募した。当時「毒まんじゅう」とも言われていたリーディング大学院という仕組みの理念や建付けへの警戒感は正直あったが、京大内なので宇宙ユニットの活動を続けることはできるし、なにより、学際的な研究と、宇宙政策、科学コミュニケーションなどの社会的な活動も含めて評価して声をかけてもらったことは嬉しかった。松本先生が僕を推薦したりといったことはなかったはずだが(川井先生はその前から一応顔見知りではあったし、当時の京大内で学際系のことやってる任期付の中堅を探したらまあ僕の名前はあがっただろう)、初めての任期のないポストが、松本先生が作ったといっても過言ではない(もちろん実際の設立にあたっては多くの方々が奔走されたのだけれど)新設大学院だったわけで、自分の人生に結構影響を与えた人なんだなあと今更ながら思う。

そんなわけでようやく任期のないポストについたのだけれど、結局そこには3年間しかおらず、2018年度から今の勤務先である京都市立芸大に異動することになる。芸術が専門ではないのに、京大の任期なし准教授から、伝統校とはいえ小規模な芸術大学の准教授に異動というのは、はたから見れば「なぜ?」となるだろうし、実際それなりに物議は醸した。その理由は今でもよく聞かれるし隠すことはないので聞かれたら話すけれども、それなりに複合的な理由はあって書くと長いし、松本先生とはあまり関係ないのでここでは割愛。一番主要なことだけ書いておくと、30代の10年間を宇宙ユニットと総合生存学館で過ごし、30歳になった時には想像もしなかったようないろんな面白い研究や経験をすることができて楽しかったので、40代も10年後に何をしているか想像もできないような新しい環境に行きたかったということである。ちなみに異動により年収は少しだけ下がった。

たった3年で出てしまったけれど、総合生存学館での経験、特に学生さんたちとの出会いは、僕にとってとても意味のあるものだったということは書いておかないといけない。異動してからもしばらくは学館の講義を非常勤で担当していたし、学生さんの研究指導も続けていた。学館の教員の方々や当時の学生さんとは今も交流が続いている。

当時すでに理研の理事長だった松本先生には、芸大への異動が決まってから電話で報告した。総合生存学館に在籍している間、松本先生とは特別授業などで年に1,2回顔を合わす程度だったが、自分の肝いりで作った総合生存学館で頑張ることを期待はしてくれていたと思うので、小言の一つも言われるかなとは思っていた。しかし松本先生はそんなことは一言もいわず、「そうか、芸術も大事な分野だし、君の能力も活かせると思う。頑張ってください」と励ましてくれた。そして「自分は今度けいはんなにある高等研究所の所長も引き受けることになったので、ぜひそちらにも色々協力してほしい」という前向きな言葉をかけてくれた。

その後、亡くなるまでの間に松本先生と話したのは10回あるかないかだと思う。総合生存学館時代から今も委員を務めている京大ELPという社会人向けプログラムで松本先生の講義がある時にお会いしたのと、あと2,3年に1回くらい、突然携帯に電話がかかってくることがあった。高等研の研究プログラムに応募しないかといった用件があるときもあったが、「松本です。最近どうしてますか」という、本当にそれだけの電話のこともあった。京大総長時代、東京出張時に省庁出向中の京大職員に電話をしていたのも、こういう感じだったんですかね。

電話がかかってくる以外、松本先生とプライベートな時間を一緒に過ごすことはあまりなかったが、総長補佐時代には、出張先で一緒に食事をすることが何度かあった。高級店や洒落た店に行ったことは一度もないし、僕が知る限りでは酒もあまり飲まない人なので、ほぼ毎回、サラリーマンや庶民向けの食堂のようなところで食べていた。そういうところで松本先生はいつも、店員さんに対して愛想がよく、そして礼儀正しかった。

10年ほど前だろうか、松本先生がELPで講義をされる時に、当時たぶん小2と1歳くらいだった2人の子どもを連れて挨拶したことがある。松本先生は下の子を抱っこしてくれようとしたが、人見知りの激しかったうちの子なんか迫力のある知らないおじいさんに怯えてギャン泣きしたので、抱っこ写真は撮れなかった。松本先生は笑って、お子さんの名前はと聞くので伝えると、「どういう人に育ってほしいと親が思っているかがよく分かる名前やな」とつぶやいた。実は僕も妻も子どもの名前に親の思いを込めるのにはあまりピンと来てなかったので、子どもの名前は主に音の響きで選んであまり強い意味のない漢字をあてていた。なのでそのときは曖昧な返事をしたと思う。

妻は、電話で僕が喋っているとき、相手が松本先生だと気配と口調で分かったらしい。確かに松本先生と話すときには独特の緊張感があった。近くで仕事をするようになってからは松本先生を怖いと思ったことはないし、ビビっているということはなかったが、今思い返すと、妙な言い方だけれど、この人をなるべく傷つけたくない、みたいな感じに近かった気がする。もちろん目上の人として気を使っている部分もあったが、結局のところ、僕は松本先生のことがわりと好きだったのだと思う。