2012年6月14日 磯部洋明
以下の原稿は、ある学校で中学生向けに「自分の夢や希望の実現に向かっていくうえで、幅広い知識や経験を大切にしたり苦難に直面してもしっかりと向き合ったりする態度を培うためにどのような中学生活をおくるとよいか」について話して欲しいと頼まれて、書いたものです。 中学生向けなのでわりと真面目に書いています。
ここから~
突然ですが、みなさんは人類はこの先どこまで生きのびると思いますか?いつかは滅びると思いますか?普段このような問題をマジメに考えることはあまりないかもしれませんが、こう聞くと「いずれは滅びる」と答える人が多いですね。理由を聞くと、環境の悪化とか戦争など、人類が自らで自らを滅ぼしてしまうという答えが多いです。
僕は人類はそう簡単には滅びないと思います。衰退と発展を繰り返すことはあるかもしれないけど、破滅的な戦争を避ける程度には人間は賢いと信じたいし、あまり考えたくありませんがそういう状況になったとしても、最後の一人まで(より正確には子どもをつくって世代をつないでゆくのが難しくなる人数まで)殺すのは現実問題として簡単ではないでしょう。地球環境の変化は人類にとって大きな脅威で、いずれ今のような巨大な人口を養うことは難しくなるかもしれませんが、人類が手にした知識、技術、文化は相当過酷な状況でも人類の生存を可能にするところまで来ています。
そうは言っても、「永遠に」生きのびるのはもちろんとても難しいことです。そもそも100万年、1000万年という時間が立てば人間が生物的に進化したりして、今とずいぶん形を変えているか、もはや人間とはいえなっているかもしれません。この生物学的変化は人間が生命工学により自ら引き起こすかもしれません。とにかくことでは、ここでは人類の遺伝子を受け継いだ、広い意味での私たちの子孫が生き延びていればいいということで話を進めましょう。
地球にはこの先様々な変化が待ち構えています。今一番問題になっている地球環境の変化といえば地球温暖化ですね。人間の活動により大気中に増えた二酸化炭素による温室効果で引き起こされていると考えられています。ご存知のように地球温暖化は、海面の上昇や局地的な砂漠化、豪雨・洪水の増加、生態系の変化など様々な問題を引き起こすと考えられていますので、二酸化炭素の排出をできるだけ抑えて人為的な温暖化を防ぐことはとても大切です。
しかし、長い目で見れば地球の環境は必ず変化します。皆さんは、今地球が氷河期だということをご存知でしょうか?「氷河期」の定義とは、地球に氷河が存在していることです。温暖化により氷河が小さくなっているという話は聞きますが、それでもまだ地球には氷河がありますよね。氷河期の中には比較的温かい間氷期と呼ばれる時期と非常に寒い氷期と呼ばれる時期があり、今は1万年ほど前から続いている間氷期です。地球の気候はとても複雑で、氷期と間氷期のサイクルを決めるメカニズムは完全には分かっていないようですが、歴史的には間氷期は1万年くらいで終わってしまうことが多かったようです。だとすると、今の間氷期もいつ終わってもおかしくないということになります。5年や10年で氷期がやってくることは多分ないのでしょうが、100年とか1000年の時間スケールではまた氷期がやってくる可能性があるでしょう。逆にもっと長い時間スケールで見れば、大きく温暖化する可能性もあります。恐竜が絶滅したのは今から約6500万年前のことですが、その頃は地球は氷河期ではなく、今よりずっと暖かかったそうです。
また、実は太陽は少しずつですが明るくなっています。太陽が生まれた45億年前は、今の7割ほどの明るさしかなかったと言われています。そこから少しずつ明るくなって今の明るさになり、約50億年後、太陽が寿命を迎える直前には、今の2倍程度明るくなると考えられています。太陽が明るくなれば当然地球は暖かくなりますから、10億年以上の長い長い年月で見れば、地球はいずれ確実に温暖化します。
地球環境というのは人間が悪さをしなければ変化しないというものではありません。それ自身でダイナミックに変化するものです。そして人類の生存という観点から見ると寒冷化は温暖化よりずっと大変です。食料生産がぐっと下がるからです。これは人間が出した二酸化炭素による温暖化の問題がどうでもいいということではありません。変化はスピードが速いほど影響が大きいので、今の環境をできるだけ変えないように守ることはとても大切です。でもそれが成功するとは限りません。だからこれからの社会を支えるみなさんがやらなくては行けない事は(もちろん今の大人の責任でもありますが!)、今の素晴らしい環境をできるだけ守るとともに、例え環境が変わってもあまり悲惨なことにならず、みんながそこそこ幸せに暮らせる社会を作ることです。具体的には、熱さ寒さに強い農作物の品種改良、省エネや新エネルギー、砂漠化や洪水を防ぐ技術など科学・技術に関わることと、食料が減っても奪い合って戦争したりしない、といった社会の仕組みに関わることがあります。どちらも同じくらい大切なことです。
ちょっと話が脱線しました。人類はどこまで生き延びれるのか?という話に戻りましょう。この先地球に待ち受けている変化は気候だけではありません。長い長い年月で見れば地形も変化します。皆さんはハワイが年間数センチくらい日本に近づいてきているという話を知ってましたか?地球の陸地はプレートと呼ばれる岩盤みたいなのに乗っていて、それは地球の内部のマントルという部分がゆっくりと動くのに合わせて少しずつ移動しています。
昔、世界中の大陸がパンゲアと呼ばれる一つの超巨大大陸だったという話は、聞いたことがある人もいるかもしれません。パンゲアが存在していたのは今から約2億年ほど前のことで、そこから少しずつ大陸がバラバラになって移動し、今の形になっています。大陸の合体と分裂は2,3億年くらいの周期で繰り返しているので、また2億年ほどすれば、一つの超大陸ができると言われています。今皆さんが住んでいる日本列島は当然ながらいつまでもあるわけではありません。「日本」という国が存在したことや、その文化を残してゆくことはもしかしたら可能かもしれませんが。
地形の変化は人間の活動する時間スケールに比べればごくゆっくり起きますから、これがただちに人類の子孫にとって危機的な状況を引き起こすわけではないと思いますが、地殻変動に伴って大規模な火山活動が起きれば話は別です。例えば熊本県にある阿蘇山が大昔に噴火した時は、今の九州全体が噴火による溶岩に覆われてしまったそうです。もし今それが起きれば大変なことですね。さらに大規模な火山噴火が起きると、噴火によって出てきた火山性のガスや塵が地球全体を覆い、太陽の光を遮ったり極端な温暖化を引き起こして、地球全体の気候を変えてしまう可能性もあります。
危機は宇宙からもやってきます。恐竜の絶滅は約6500万年前に地球に巨大な小惑星が衝突したためだと言われていますね。直径10kmもの小惑星が衝突したら、その周囲が壊滅的な打撃を受けるだけでなく、海に落ちれば巨大な津波が発生しますし、衝突により巻き上げられた塵が長い年月に渡って地球を覆って気候を大きく変えてしまいます。このような巨大な小惑星衝突はそれほど頻繁ではありませんが、いずれまた起きる可能性は大いにあります。もっともこのような小惑星の衝突を事前に察知して、事前に少し軌道をずらして衝突を避けるための研究がされていますので、将来研究が進めば小惑星の衝突に関しては避けられるようになるのかもしれません。
さて、地球環境の変動は大変なことですが、人類が十分賢ければなんとかそれに適応して生き延びられるでしょう。今の人類がそれほど賢くないといって悲観することはありません。人類には(ゆっくりですが)経験から学んでより賢くなるという素晴らしい能力がありますから。
人類の子孫にとって、最初の「決定的な」危機は太陽系の終わりです。約60億年後、太陽は寿命を迎えて赤く膨れ上がり、地球は飲み込まれるか、少なくとも生命が住めるような状態ではなくなってしまいます。そしてそのまま太陽は死を迎えます。私たちの遠い遠い子孫がその時までに地球を脱出して他の恒星系に移住するすべを獲得しておかないといけません。 例えその危機を乗り越えても、100兆年先には星の原料である宇宙のガスが使い尽くされて星がまったくできなくなります。全ての星はいずれ寿命を迎えて、白色矮星や中性子星、ブラックホールなど、少なくとも今の地球にいるタイプの生命が生存してゆくには極めて難しい天体しか存在しないような状況になります。宇宙のさらに遠い未来がどうなるかについてまだ科学的に確実なことは言えないのですが、この先宇宙全体がどんどん膨張を加速させ、いずれ、どのような形の生命も存在が難しく、だれとも通信できない孤独な宇宙になってしまうという説もあります。
さて、私自身は、人類の短期的な未来にはわりと楽観的です。ここで言う短期的というのは1000年とか1万年くらいの期間だと思って下さい。この先地球と人類には色々と問題はおきるでしょうが、きっと私たちの子孫はたくましく生き延びてくれることでしょう。 ですが、私たち自身の血を受け継いでいようといまいと、この宇宙で永遠に生命が存在し、活動し続けるのは、現在の物理学の範囲で考える限りなかなか難しそうです。人類、もしくはその子孫は、いずれは滅びる運命にある可能性が高いと言わざるを得ません。もちろん、今の科学では分かっていない何らかのメカニズムがあって、宇宙の膨張が止まったり他の宇宙に逃げ出ることができたりして、人類の子孫が永遠に生き延びられる可能性が全くないわけではありませんが。 仮に人類の子孫は永遠には生きられないと分かったとしましょう。少なくともこの地球上での生命活動は遅くとも60億年後には終わることは間違いありません。ではいずれ滅び、消え去ることが分かっているとすれば、人類は何のために生きて、何のために文化や芸術を後世に残し、何のために進歩を続けようとするのでしょうか。
この問いは一人一人の人生にも当てはまります。人間はせいぜい100年かそこらで死にます。少しくらい寿命はのびるかもしれませんが、それでも200年になることも多分ないでしょう。これは今のところ、恐らくは将来も、避けようがありません。 人はどうせいつか死ぬ、なのにどうして「良く」生きる意味があるのか。どうせ死ぬなら今を楽しめばそれでいいじゃないか、などと思ったことがある人は結構いるのではないでしょうか。 その問いに対して私ははっきりとした答えを持っていません。我々は何のためにここにいるのか、この問いは古代から多くの人が問い続けてきた、おそらく決して答えの出ない問いです。もしかしたら、人が生きる意味、人間が宇宙に存在する意味なんて、大してないのかもしれません。
ですが、それでも人はその問いを考えてしまいます。そして、自分が生きている意味を見つけたいと思います。
「なぜ我々はここにいるのか」が分からなくても、「どのようにして我々は生まれたのか」という問いは、実は現代の科学である程度は答えることができます。「なぜ我々はここにいるのか」その問いに対する、少なくとも自分なりの答えらしいものを探して、「我々はこれからどう生きるのか」を考えるヒントにするために、次は「どのようにして我々は生まれたのか」を宇宙の歴史を振り返って見てみましょう。
私たちの住んでいる宇宙は、ビックバンという大爆発から始まりました。なぜそういう始まり方をしたのかはよく分かっていませんが、そういう始まり方をしたという事実はかなり確かなものです。 宇宙ができたとき、実はごくごく初期にも色々な面白いことは起きているのですが、ともかくビックバンがある程度終わって今の宇宙ができた時、宇宙には水素とヘリウム、それにほんのわずかのリチウムという元素しかありませんでした。もちろん星もありません。水素とヘリウム(それにごく少量のリチウム)のガスが、宇宙全体にほぼ一様に存在しているだけです。宇宙はどこに行っても同じような景色しかない、退屈な場所でした。
しかしこの退屈でのっぺりとした宇宙にも、ほんの少しだけガスの濃さにムラムラがありました。ガスの濃い場所には、自分自身の重力でガスがさらに集まってきます。逆に薄い場所はどんどん薄くなります。そうして、集まって来たガスは、重力でやがって丸くなって星ができます。また星が集まって銀河ができます。
星の中は非常に温度が高くなるので、やがてその中で水素と水素がくっついてヘリウムになる、いわゆる「核融合」という反応が起きます。これにより大量のエネルギーが発生して、星は明るく輝きます。核融合は核兵器である水素爆弾に使われているのと同じメカニズムで、私たちの太陽のエネルギー源もやはり核融合です。 星の中では、始めは水素と水素がヘリウムを作る反応が起きますが、やがて、炭素、窒素、酸素、鉄などの様々な元素が核融合で作られてゆきます。始めは水素、ヘリウム、リチウムしかなかった宇宙の中で、重力でガスが自然に集まってできた星が、元素の合成工場になるのです。
星はある時間が発つと、核融合に使える燃料が尽き、寿命が来て死を迎えます。星が死ぬ時、特に質量の大きい巨大な星は超新星爆発という大爆発を起こして、それまで中で作っていた炭素や窒素や酸素や鉄などの様々な元素を宇宙空間に放出します(超新星爆発の最中にだけできる元素もあります)。太陽くらいの比較的小さな星はもう少しおとなしく死を迎えますが、それでもやはり最後は星を作っていたガスが宇宙空間に放出されます。こうして宇宙空間に、新しい元素が少しだけ供給されます。 新しい元素が少しだけ加わったガスの中から、再び星が作られます。その星は同じ様に中で新しい元素を造り、死を迎えると作った元素を宇宙に放出します。その過程が何度か繰り返されて、宇宙に、鉄、ケイ素(岩石に含まれる元素)、酸素、炭素などの元素が増えてくると、新しい星ができる時に、まわりに岩石の塊のような小さな星、つまり惑星ができるようになります。私たちの地球と太陽系は、このようにして宇宙に惑星の材料となる元素が作られたことで、始めて誕生することができたのです。
そして、星の中で作られたのは星としての地球の材料だけではありません。私たち生命の材料も、やはり同じ様に星の中で作られたものです。みなさんの身体で一番多いのは水ですが、水は水素と酸素がくっついたものです。骨はカルシウム、肉はたんぱく質ですがたんぱく質は窒素や酸素、炭素などからできています。血液には鉄が使われています。これ以外にも、みなさんの身体には実に多くの元素が使われています。 そして、今みなさんの身体を恒星している一つ一つの粒子は、水素を除けば、かつて一度太陽以外の星の中で作られ、宇宙空間に放出されたものです。みなさんは星の中で作られた元素からできた、いわば星の子なのです。
ところでこの宇宙に私たち地球上の生命以外の生命や、人間と同じかそれ以上の知性を持った宇宙人はいるのでしょうか。残念ながら、今のところ地球以外の生命や宇宙人が存在するという、信頼に足る証拠はありません。ですが、地球と似たような星、液体の水があり、地球上の生命が生きて行けそうな星は、既にいくつか見つかりだしていて、恐らく宇宙全体にはいくらでもあるだろうと考えられています。
今の科学でほとんど分かっていないのは、そのような星があった時に、そこに生命が生まれる確率がどれくらいか、ということです。もしかしたら生命というのはすごくできやすくて、必要な材料と環境さえ揃っていれば、どの星でも生まれるのかもしれません。しかし、もしかしたら、地球に生命が生まれたのはすごく可能性の低い出来事が連続して起きる奇跡のようなことで、宇宙には私たち以外に生命はいないという可能性もあります。
皆さんの身体の細胞の一つ一つには、遺伝子、DNAというのがあって、それが生命の設計図として親から子へ引き継がれているということは、聞いたことがある人が多いでしょう。実は私たちが知っている限り、今地球上にいるすべての生き物のDNAは、同じ材料からできて、同じような形をしており、全く同じ部分も持っています。人間、犬、ハエ、大腸菌のような微生物にいたるまでそうです。これは、私たち人間を含む地球上の生命は、全て同じ祖先を持っていることを意味しています。
地球で最初に生まれた生命、私たちの祖先は、人間に比べればごく単純な微生物だったはずです。そんな一番単純な生命でも、その構造はものすごく、ものすごく複雑です。材料となる物質を海に入れてちょっとかき混ぜるだけで、自然にこんなものができてくるとは、ちょっと考えにくいです。やはり奇跡のように思えてきます。奇跡のように思える理由は、生命が複雑だからです。色々な元素を使って、色々な形の分子を組み合わせて、何かものすごく精巧なものを作っているように見えます。私は、こんな複雑なものが誰の手になるでもなく、宇宙の中で自然に誕生したということを考えると、一種の感動を覚えます。 先ほどの話を思い出してみて下さい。最初、宇宙はほぼ水素とヘリウムだけの、変化に乏しいのっぺりとした退屈な場所でした。その中で誰がコントロールするわけでもなく勝手に星ができ、その中で元素が作られ、宇宙の放出され、その中からまた星ができ、やがて惑星ができ、海ができて、そして生命が誕生したのです。 みなさんの中で信仰を持つ方がいたら、それはやはり神様が作ったのではないかと思うかもしれません。私自身は特に信仰を持っていませんが、生命の発生は、科学者である私にとっても神様のような存在を感じさせる出来事です。
生命はその後も奇跡のような進化を続けます。微生物と人間を比べてみて下さい。道具に例えればラジオと飛行機くらい違います。材料や工具を倉庫に放り込んでおくと、勝手に飛行機ができるなどということは想像しがたいと思いますが、地球ではまさにそのような、いや、おそらくはもっと奇跡的な進化が起きたのです。 京都大学に古い化石などをもとに生命の進化について研究している大野照文先生という方がおられますが、大野先生に、この先地球に人間以外の知的生命が現れますか、と聞いたところ、恐らく知的生命への進化は、生命の発生そのものよりももっと難しく、奇跡的な出来事だろうと仰ってました。私はその分野の専門家ではありませんが、そのように考える科学者は多いようです。
人間が、例えば単細胞生物であるゾウリムシより「すごい」存在かどうか、それは実は簡単な問いではありません。が、人間がゾウリムシより「すごい」と客観的に言う事のできる理由があるとすれば、その一つは人間がゾウリムシよりもはるかに複雑だということです。さらに、人間は自らの手で例えば飛行機のような、または絵画や文学のような、自然にほっといてもまずできなさそうな複雑なものを作り出すことができます。 私が「複雑」という言葉を使っているのは、何が「いい」「美しい」「役に立つ」といったことは、判断する人(生命)や状況によるので客観的に言うことが難しいからです。ですが、「複雑さ」は使っている材料の多さ、形の多様さ、組み合わせの数など、客観的に表すことができます。
それはともかく、先ほど「人間は自然にほっといてもまずできなさそうな複雑なものを作り出すことができる」と言いました。皆さんも、「人工のもの」と「自然のもの」は通常分けて考えると思います。ですが、この二つの違いは実は自明ではありません。なぜなら、人間もまたこの宇宙の中で「自然に」できてきたものであり、その人間が作るものもまた広い意味では「自然に」できたものであるとも言えるからです。
例えば珊瑚礁や熱帯雨林の「自然」は珊瑚や魚、草木や動物、そしてプランクトンや微生物たちが生命活動の結果として作り出したものです。動物や鳥の巣などは、より人間が作るものに近い感じがしますね。そう思うと、良いものでも悪いものでも、人間が作りだしたものを含め、この世界にあるもの全ては、宇宙の歴史と進化の結果として、今存在しているのです。私がこの原稿を書いているパソコンだって、パソコンにつながってる延長コードもそうです。延長コードの上にうっすらつもっているホコリでさえ、かつてどこかの星の中でつくられた元素が、いまめぐりめぐってホコリになって、そこの延長コードに降り積もっているのです。 私はこのことを考えると、生命の発生について考えるときと同じような感動を覚えます。そんな時は世界の全てが美しく、いとおしく見えます。ホコリを見ても、空き缶を見ても、電信柱を見ても、「よくぞまあ宇宙のはじまりからここまで」と思ってしまいます。「思えば遠くへ来たもんだ」とはよく言ったものです。(念のため,四六時中そんな風に思ってるわけではありません。電柱を見るたびに感涙にむせぶようではまともな生活は送れませんので。)
だから私は、宇宙の中で地球や生命や人間が誕生したことに意義を見いだすとしたら、それは宇宙を多様で複雑なものにすることなんじゃないかと思っています。水素とヘリウムだけののっぺりとした宇宙から、天体や生命が躍動する、ダイナミックで、複雑で、面白い宇宙へ。生命と人間はその中でただ受け身に生きるのではなく、積極的な役割を果たしています。私たちは生きて活動するだけで、必ずこの宇宙のなんらかの部分に影響を与え、その痕跡を残しています。みなさんの存在と行動、それ自身が宇宙の歴史の帰結であると同時に奇跡のような出来事であり、新しい宇宙の歴史の一部を作るものであることを、時々考えてみて下さい。(時々でいいです)
もう少し一人一人の人間に引き寄せて考えてみましょう。
一人の人にとって、自分や自分の周り人の人生が、苦しいことやみじめで悲しいことばかりだったら、いくら種としての人類やその子孫が繁栄し、宇宙が多様で豊かになったところで何の意味もないでしょう。宇宙に星ができることと人間が生まれることの違いは、人間には感情があり、自由意志があるということです。人間以外の生命にどれくらい感情や自由意志があるのか、私はよくしりません。恐らく微生物にはほとんどなく、類人猿には人間に近いものがあるのかもしれません。とりあえず今は人間のことを考えましょう。
感情と自由意志があることによって、人間が宇宙にいることの人間自身にとっての意義は、単に「複雑さ」「多様さ」を増すことだけではなくなりました。 人類は、単に複雑さや多様さを宇宙に追加するだけではなくて、人類を構成する一人一人の人間が、幸せに、少なくともすごく不幸せにならないよう、人類の幸福をできるだけ最大化し不幸をできるだけ最小化するようにしてゆかないといけません。
「宇宙の複雑さを増すために」生きていると言われたってまったくピンと来ない人も、ここには意味を見いだしてもらえるのでは と思います。みなさん一人一人が自分の幸福を追求し、さらにみなさんの周囲の人を一人でも、少しでもいい気持ちにさせることができれば、それは「一人一人の幸福を最大化、不幸を最小化しながら宇宙の複雑さと多様さを増して行く」ということに貢献していることになります。
みなさんもう気付いていると思いますが、これはずいぶん遠回りして当たり前のことを言ってます。つまり、みんなで助け合って、幸福で(不幸の少ない)よい社会を作るのがいいですね、言っているに過ぎません。私がここでいいたかったのは、そのような当たり前と思ってる価値観が、人がなぜ生きているかとか、人類はこの先どう生きるべきなのかとか、そういう根源的な問いの中で、どう位置づけられることができるか、ということに対する一つの提案です。
当たり前のこととは言いましたが、何が幸せで何が不幸かについては、ぜひ柔軟な考えを持って下さい。何を幸せと感じるかは人それぞれ違うということは皆さんも経験から知ってるでしょうし、社会全体を見ても、恐らく今の人が思う幸不幸と、戦国時代の武士のそれは恐らく違うし、クマやカエルやカブトムシとはもっと違うでしょう。千年一万年経てば人間の考え方も変わってくるでしょうし、いずれ人間が進化して他の生命になった時は、「考える」という枠組み自体から根本的に変わってしまうかもしれません。
そろそろまとめに入ります。このお話は「自分の夢や希望の実現に向かっていくうえで、幅広い知識や経験を大切にしたり苦難に直面してもしっかりと向き合ったりする態度を培うためにどのような中学生活をおくるとよいか」について、中学生に話して欲しいという依頼を受けたことをきっかけに書いています。
夢や希望を持って努力することの大切さを、みなさんは大人たちから聞かされていると思います。私もそれは大切だと思います。それには、大きく分けて二つの理由があります。
一つは、それがみなさん自身の人生を、とても楽しく、活力あるものにしてくれるだろうからです。もちろん保証はできません。でもたぶんそうです。何かなしとげたい夢、こうなりたいという希望があって、そのために努力することは、それ自体がとても楽しく、幸せなことです。(もちろん苦しいことも多いでしょうが)夢や目標を持って、何かを乗り越えよう、成し遂げようとすることは、しばしば成し遂げられた夢や目標そのものよりも意味があることがあります。
もう一つは、夢や希望をもって努力する人々が、少なくとも一定の数いることが、社会にとって、つまりその人以外の人を含む人間の集団にとって、必要なことだからです。
しばらく前から、持続可能社会ということが言われ続けています。地球上の資源は有限ですから、いつまでの経済発展最優先の大量消費社会を続けることができないのは明らかです。だから私たちの社会は、足るを知り、資源を使い尽くすことなく、ずっと続けていけるような社会のシステムに移らないといけません。 ですが、経済成長をやめることは、変化のない、穏やかだがずっと同じ社会を維持することは意味しません。なぜなら、私たちの生存の基盤となる自然環境も、また人々の考え方やそれに応じた社会のシステムも、変化せざるを得ないからです。それに、人間が目標に向かって何かを乗り越え、新しいことを成し遂げて行く事そのものに喜びを感じるのだとすれば、「ずっーと同じ」社会は多分幸せな社会ではありません。
だから、これから先も人類は、つねに変化に適応し、新しい技術や社会のしくみ、考え方を生み出しながら、古いものともなんとか折り合いをつけ、進化を続けていかないといけません。そうするためには、将来がよくなるという希望、こうなりたいという夢をもって努力することで社会を引っ張る、活力のある人たちが必要不可欠なのです。 何も全員がすぐ社会のためになるような仕事につかないといけないわけではありません。科学でも芸術でもスポーツでもエンターテイメントでもビジネスでも、何か新しいものを求めて様々な方向性で活躍する、そういう多様で活力ある人々が集団でいることが、トータルで見れば、変化に対応して適応可能な社会を作る源になります。みんながそこそこ幸せで食べて行けるようにするために、そういう人たちが必要なのです。
だから、今何か将来の夢がある人、やりたいことがある人は、どうぞそれに向かって突っ走って下さい。途中で挫折したり、やりたいことが変わってしまうことはしばしばあるようですが、そんなことは皆さんの人生の価値をちっとも減ずることはありません。むしろそれは新しい挑戦の種となって、皆さんの人生を豊かで幸福なものにしてくれると思います。
今、これと言って夢や目標がない人は、焦ることはありません。ゆっくり準備して下さい。大切なことは、興味の幅を広くもつこと、そして自分の可能性をあまり狭めて考えないことだと思います。
最後に、たとえ情熱をかたむけてやりたいこと、夢や目標が見つからなかったとしても、失望することはありません。夢や目標を追い求めるだけが、意味のある人生ではないからです。
私の尊敬する人に、心理学者のヴィクトール・フランクルという人がいます。この人はオーストリア生まれのユダヤ人で、第二次世界大戦中にナチスドイツによって強制収容所に入れられ、死と隣り合わせの過酷な労働を強いられました。その時の手記が「夜と霧」という本になっています。 彼はそこで、人間がここまで残酷になれるのかという恐ろしい事実と共に、そのような悲惨と絶望の中にあっても、他者へのいたわりを忘れず、大切な人の幸せを願って祈りを捧げる人たちを多く見いだしました。そして「どんなに自由を奪われた状況でも、与えられた状況においてどう振る舞うかという人間の最後の自由は、決して奪うことはできない」「どのような状況でも、与えられたその状況で、人間らしく、思いやりと尊厳をもって振る舞うことで、その人の人生は意義のあるものになる」と述べています。
これは極端な例ですし、何よりナチスの強制収容所のような悲劇を二度と繰り返してはなりませんが、ここで言いたかったことは、皆さんのこれからの人生が、夢を追って実現させたり、クリエイティブな仕事や、社会的に意義があって尊敬される仕事についたり、或は経済的に豊かで楽しみにあふれた人生でなかったとしても、みなさん自身が人生をそう悪くないと思って、時々楽しいこともあって、そして他の人の人生をそう悪くないものにするのにちょびっとでも何か役に立てるのなら、それはすごく素晴らしい、意義のある人生だとも言えるのです。
なぜなら今日述べてきたように、宇宙が水素とヘリウムばかりの退屈でのっぺりした世界から始まったことを思えば、みなさんの存在自体が奇跡のようにすばらしく美しいものであり、みなさんのこれからの行動一つ一つが、もっともっと複雑で、多様で、美しい宇宙を形作ることになるからです。