2025.11.1
2025年7月に、富田秀直さん、戸澤幸作さんと一緒に「わたくし学問研究会」というのを立ち上げました。「無理はせず、しんどくなったらやめる」をモットーに、今のところほそぼそと続けています。よければ研究会のサイトをご覧ください。
以下の文章は、研究会のサイトに掲載した趣旨文の下書きとして書いていたものです。研究会サイトではかなりコンパクトにしているので、こちらの方が長く、ややまとまっていない部分があります。
なお、「わたくし学問」という名称は、この研究会の発案者である富田さんが「私(わたくし)小説」のような学問をしたいと言ったことから来ています。正直、最初はあまりピンと来ていなかったのですが、徐々に、われわれがやりたいと思っていることを表現している名称として悪くないかも、と思うようになってきました。ただしここに書いてあることは、富田さん、戸澤さんとの議論を経た上で書いたわたし(磯部)の考えであって、研究会世話人の総意として書いているものではありません。
わたくし学問研究会について
近現代の科学を科学たらしめているものを一揃いの定義で厳密に記述することは困難である。しかし科学が普遍性、客観性、実証性、再現性などを重視してきており、それらが今も科学研究の重要な規範であることには変わりない。それらの規範に基づいて科学者は研究に取り組み、論文や様々なプロダクトの形で成果を創出する。科学の成果が普遍的な価値を持ち、その価値が客観性、実証性、再現性などで担保されているとみなされるからこそ、それは広く人類に共有・蓄積され、次の世代へと受け渡される。科学におけるこの規範と価値観を、本研究会も共有している。
だが、研究に取り組む科学者たちの多くは、研究とそれに伴う発見や創造を通して、あるいは地道な作業の繰り返しや失敗を通して、論文やプロダクトの形にはし得ない、あるいはし難いが、確かに価値のある経験がそこにあることを知っているのではないだろうか。本研究の一つの目的は、職業科学者として世に送り出す成果からは取りこぼされてきたものを拾い上げ、そこに新たな学術的・社会的価値を見出すことである。
そのために本研究が取るアプローチの一つが、芸術である。芸術のあり方は、狭い意味の学問よりもさらに多様であるが、本研究が特に着目する芸術の特性は以下のようなものである。芸術とはこういうものだと決めてかかっているわけではなく、芸術に取り組む人々を隣で見ていて、こういうところがなんかええ感じやなと思うことが多い、ということを書いているのだと思って読んで欲しい。
一般に、芸術に取り組む人々は、美しさ、面白さ、世界の見方を変えてくれること、不安や憧憬を掻き立てるものなど、対象から様々な価値や機能や意味を見出すことに長けている。また、一見関連のない別のものに何らかのつながりを見いだしたり、本来とは異なる解釈を創り出したりすることにも長けている。既存の学問の中にこのようなことがないわけではないが、芸術家がもつそれらの力は質、量ともに異なるように思われる。いままでの科学が取りこぼしてきたものを拾い上げ、そこに新たな学術的・社会的価値を見出すという本研究の目的にとって、芸術が持つこの力は極めて魅力的である。
芸術は多様な解釈を許す。これもまた、学問にそのような側面がないわけではない。後でも触れるように特に人文学においてはよりその傾向があるだろう。だが原則として学術的成果はその意味するところを曖昧さなく明晰に提示することが求められる。一方芸術においては、鑑賞者が作家の意図とは異なる解釈を見出すこと、そのような解釈を引き出しうる作品が、むしろ積極的に評価されることがしばしばある。この姿勢を学術成果のアウトプットとその受容に取り入れることは、本研究の目に見える特徴となるだろう。もちろんそれは科学的な正確さや学術的な誠実さを毀損するものであってはならない。
芸術は身体性を気にかける。これは、生身の人間の身体を使った表現こそが高く評価されるという意味ではない。身体性を重視する作品制作もあれば、あえて人間の身体から切り離された、アルゴリズムや偶然性が支配する作品を制作する作家もいる。共通しているのは、どちらも、生身の身体を持った人間の存在を「気にしている」ということである。このことは「作家性」とも関係しているかもしれない。科学的成果は、実際の研究の現場がそうなっているかはともかくとして、少なくとも建前は「誰がその成果を出したのか」はその成果の評価には関わらないことが原則である。一方芸術においては、作品を作家本人から切り離されたものとして見たい/見て欲しいという場合もあれば、どんな人がその作品を作ったのかということがその作品の価値や得られる感動を形作る不可分の要素である場合もある。人類学や当事者研究など一部をのぞいてあまり顧みられてこなかった学術研究の実践における身体性は、学問が取りこぼしてきたものを拾い上げようとする本研究における一つの重要な視座となる。
芸術はその成果が全人類に共有されなくとも価値がある。さらに言えば、全ての人に届くことよりも、むしろ何らかの感性を共有する限られた人に深く届けたいと願う芸術家は多いだろう。究極的には、誰に見られることがなくとも、その営為が芸術家本人にとって大きな意味を持つことさえある。そして私たちは、誰にも知られることなく自らのためだけに作品を作り続けた芸術家の営為そのものに、深い感動を覚えることがある。学問にこれは当てはまるだろうか。全人類に共有された普遍的な知を拡大することに大きな貢献ができなくとも、学問に取り組むその人にとって大きな意味のあるような営為を、学問は評価することができるだろうか。
次に、本研究会の主要な目的では「ない」ものをあげておく。
第一に、芸術の力を活用した学術成果のアウトリーチ。このことの重要性、有用性に異論を挟むつもりはない。本研究もまた、その成果を社会に発信するにおいて、芸術やデザインの力を用いた様々な取り組みをすることになるだろう。だがそれは既に様々な形でなされていることである。本研究の過程この分野に新たな貢献ができるのは望ましいことであるが、それはあくまでも副次的な成果であり、本研究はそれのみを目指して取り組まれるものではない。
第二に、最新の科学的知見やテクノロジーを活用した芸術作品の制作。学問に取り組む人と芸術に取り組む人の出会いと交流は本研究の根幹をなすものであり、それを通じて芸術家が最新の科学的知見やテクノロジーを自らの作品の中に取り入れることは、本研究も積極的に評価・奨励するものである。だがこれもまた既に膨大な優れた成果が作り出されてきた領域である。本研究が目指すのは、芸術家の側もまた実践的に学問に取り組むことによって自らの芸術実践を顧みることであり、単に学問的成果を芸術の側に取り入れることではない。
第三に、学問(科学)と芸術の融合。学際融合という言葉が一般的に使われるようになって久しい。本研究はこれまでの学際融合的な研究実践の積み重ねに多くを負っており、その価値を軽視するものではまったくない。しかし、融合という言葉が示唆する、異なるものが融けあって一つになるようなあり方を、本研究は必ずしも志向していない。あくまでも、学問と芸術、それぞれの立ち位置にいるものが、それぞれの新しいあり方を探求するにあたって異なるアプローチから学ぶというスタンスでいる。その結果として生まれるものが、学問とも芸術とも言い切れない両者の融合的なものになる可能性はあるが、融合そのものを目的にはしていないということである。
それから、研究会の主要な目的とは少しずれるが、磯部個人が本研究に関連して取り組みたいこととして、コミュニティとしての科学と芸術の比較研究がある。調査者/表現者の倫理、政治・経済との距離感、公的支援の正当化、ハラスメント、若手のキャリアや労働問題、閉鎖性や敷居の高さなど、コミュニティとしての科学業界と芸術業界は似たような課題を抱えており、共に学び合うべきことが色々とあるように思う。そのことを考えるきっかけの一つになった事案について、以前書いた文章がこちら。 表現の自由と倫理について語る前に—<<88の提案>>をめぐる議論ー
ここまでで「科学」、「学術」、「学問」などの言葉を使ってきた。この文章を書いているわたくし(磯部)は宇宙物理学を専門家とする自然科学者であり、ここに書いたようなことを考えるにあたっては、社会科学も含むいわゆる「科学」をまず念頭におくことになりがちである。もちろん本研究会の射程には人文(科)学も入っており、「学術」や「学問」を使っているところはより人文(科)学まで含んだ広い範囲のものを想定して書いているのだが、そもそも人文(科)学には、上で芸術の特性として挙げたものと重なるところが自然科学・社会科学と比べて多いと思われる。そのあたりはぜひ人文(科)学の専門家と議論してみたい。
芸術と科学・学術・学問は、対比的に考えられるところもあれば重なる部分もあり、それぞれの守備範囲を厳密に定義したりするつもりはないが、いずれもう少し言葉の整理はしておきたいと思う。この研究会の名称にわたくし「学問」を選んだのは、「学び、問う」という言葉の意味が目指す方向性に一番合ってる気がしたからだが、じゃあそのあとになんで「研究」会がつくのかと聞かれたら、特に深い意味はないとしか今は言えない。
本研究会発起人の3名は、芸術以外の専門性を持つものとして芸術大学に籍を置く者である。本研究会は、わたしたちが芸術を志す人たちの営みを間近で見ているうちに自らの学問についていろいろと考え直すようになったことが発端である。これが芸術の側にとってどういう意味や面白さがあるのかはよく分かっていないし、そもそもわたしたちがそれを言語化することにも躊躇がある。それでも芸術を志す人の中にここに書いていることに関心を持ち、一緒に何かやろうと思ってくれる人がいたら、とても嬉しい。