この文章は、2014年11月1日に京都大学新聞に掲載された文章に、 文献の書誌情報など若干の加筆修正を行ったものです。
京都大学新聞のサイト
フリーマン・ダイソンの話をしようと思う。彼から学ぶべきことが多いと思うからだ。
ダイソンは物理学者である。物理学者としての彼の業績で特に知られているのは、量子電磁力学というミクロな世界を扱う分野で、朝永振一郎、ジュリアン・シュインガー、リチャード・ファインマンらが独自に構築していた理論が数学的に等値であることを示したことである。ダイソンはそのことを発表する論文*に「トモナガ・シュインガー・ファインマンの放射理論」というタイトルをつけ、朝永がその業績にふさわしい栄光を受けることを確かなものにしようと考えた。後に朝永はこの業績でシュインガー、ファインマンと共にノーベル賞を受賞する。なおダイソンは数学や天文学の分野でも業績がある。
* F. Dyson, “The Radiation Theories of Tomonaga, Schwinger, and Feynman”, Phys. Rev. 75, 486 (1949)
ダイソンはまた、想像力の人である。人類文明が宇宙全体へと拡がることを夢見た。夢見るだけでなく、知的生命がこの宇宙で永遠に存在できるかどうかを科学的に検討した論文を書き(**)、遺伝子工学で作り出した植物を生やして彗星に居住する太陽系植民や、恒星全体を覆ってその全エネルギーを使う宇宙文明など、科学的な知見と自由な発想に支えられたアイディアをいくつも出した。ダイソンはこの宇宙の長期的な未来がどうなるかを考える時、知的生命の役割を無視できないと考えた。曰く、「われわれは、単なる観察者ではなく、宇宙のドラマの俳優なのだ」「自然の法則は宇宙をできるだけ面白くするように構成されている」
** F. Dyson, “Time without end: Physics and biology in an open universe”, Rev. Mod. Phys. 51, 447 (1979)
ダイソンは現実的に問題を解く人でもある。彼は初期の原子炉や、核エネルギーを用いた宇宙船・オリオンの開発に携わった。彼が開発を主導した小型の原子炉は、医療機関や研究機関で放射性同位体を作るために利用されている。第二次世界大戦中に英空軍の爆撃司令部で科学的助言を行う任務についており、戦後米国に渡って市民権を得た後は、米政府の対ソ連軍縮交渉にも関わった。若き日に広島への原爆投下を喜んだダイソンは、後年そのことを苦渋の思いで振り返る。そして核兵器の廃絶を強く願うと共に、その実現に向けた過程には通常兵器による防衛的な軍備の拡充が不可欠だろうと考えていた。
そして何よりもダイソンは、多様性と寛容を愛し、人間的な視点を持った人である。そのことをうかがわせるエピソードを一つだけ紹介しよう。
1976年にダイソンはプリンストン大学がDNA組換えの研究所を作ることを許可すべきかどうか審議する市の委員になった。その委員会には11人の市民が参加しており、そのうち牧師、写真家、黒人社会の指導者の3名が頑強な反対派であった。反対派の3名にとってこの問題は、公衆衛生の問題ではなく、良心の問題であった。ダイソンは彼らを理解し、彼らの意見と自分の意見の間に妥協点を見いだそうと努力した。しかし結局それはかなわず、委員会は市当局から期待されていた全員一致の勧告ではなく、研究賛成の多数派と反対の少数派の両論を併記した勧告を提出した。
しかしこの一件を回想したダイソンの自伝には、「合意の望みが薄くなるにつれて、私たちの間の相互の尊敬と好感はますます強くなった」とある。反対派であった黒人社会指導者のエマ・エプスが報告書に書いた短く、雄弁な言葉が以下である。「私の良心は、私にこれ(遺伝子組換え研究)に対してノーと言えと告げており、私は自分の良心に反したくありません。さらにまた、科学者である私の友人たちは、私が私の良心に反して行動すべきであると思う理由は何一つないと言っております。」そして「私は、彼女から友人の一人に数えられたのを誇りに思っている」とダイソンは書いている。
ダイソン自身は、個人的にも哲学的にも反対派の方により近いと感じたにもかかわらず、多数派である賛成に回った。彼はその理由を「どんな行政当局も、権限を持っている人がその研究に哲学的に反対しているという理由でその研究を制限する法的権利をもってはならない」からだと書いている。その結果プリンストン市議会はさらに9ヶ月の間この問題を検討することを強いられ、その間プリンストン市は世界で唯一DNA組換え研究が禁止されている場所となった。結局市は翌年になってようやく多数派の勧告を受け入れ、一定の条件のもとでDNA組換え研究を認めた。以下はそのことを評したダイソンの言である。「民主主義は、のろくてよろよろした仕方で困難かつ感情的な論争を解決し、しかもなお少数派に、自分たちの見解が綿密に考量され勝手に踏みにじられたのではないと感じることを可能にしたのであった。」
最後に書いたエピソードは、ダイソンの自伝的著作「宇宙をかき乱すべきか」(ちくま学芸文庫)」に書いてある。それ以外のことも「科学の未来」「多様化世界」「核兵器と人間」(以上みすず書房)等、ダイソンの著作から知ったことである。私は論文と著作を通じてしかその人となりを知らない。1923年生まれのダイソンは既に90歳を超える高齢である。彼と会って話をしてみたいというのが、目下私の望みである。
2021年2月追記:ダイソンさんは2020年2月28日にお亡くなりになりました。