この文章は、2016年10月22日〜11月13日に開催された京都国際舞台芸術祭における企画展示 researchlight『河童と、ふたたび』 の展示の一部として、「宇宙との対話」をテーマにした文章を依頼され、書いたものです。
参考URL: http://kyoto-ex.jp/2016-autumn/program/researchlight/ (リンク切れのようです)
中村文則の「何もかも憂鬱な夜に」という小説に、見知らぬ夫婦を刺殺して死刑判決を受けた若者が、主人公の刑務官に犯行前の様子を語る場面がある。生みの親を知ること無く、虐待を受け、誰とも心を通わせることなく育った若者は、少年院を出て勤めだした工場から逃げ,物を盗みながら廃車の中で生活する。荒んだ生活で身体も壊していた若者は、高熱で掠れる意識の中、廃車の窓から月を見る。
「遠くに、月があった。….あんだけ遠いところに、月がある。それなのに俺はこんな風に、毛布の中で、ここで死ぬ…。恐かった。生まれて初めてだ。月は、俺に関心がない。なのに俺はここで、もうすぐ絶対に、一人で小さく死ぬ。宇宙があるのに、完全に一人で。暗いところで。」
そして若者は犯行に及ぶ。
ここで月は、人間の善悪や感情を超越した存在として描かれている。人間的な営みとは様式の異なる存在と言ってもいいだろう。かつてパスカルが「この無限の空間の永遠の沈黙は私を恐怖させる」と書き残したように、宇宙は人間が対峙するにはあまりにも巨大で異質である。そこに対話はなく、あるのは絶望的な隔絶である。
しかし、その途方もない巨大さ、異質さこそが、人々が宇宙へ惹きつけられてきた理由でもある。宇宙に魅せられたというデザイン専攻のある大学生は、宇宙に覚える感動は他のどのような感動と似ているかと聞かれ、「すごく変わったフェティッシュの人に会った時」と答えた。それは、自分の日常感覚を超えた何かが、それでも確かにそこに存在していることに対する感動である。
天文学者たちは、畏れと憧れが入り交じった異世界への好奇心に駆り立てられ、宇宙から届く声—それは様々な波長の電磁波であったり、高エネルギー粒子であったり、重力波であったりする—に耳を澄ませる。物理学の法則は、はるか彼方から届く宇宙のささやき声を読み解くための鍵である。
それでも人間は、時に物理学の制約を超えて、宇宙と対話する。古来から天文現象は地上の人間社会へのメッセージとして読み解かれてきたし、正岡子規が「真砂なす数なき星のその中に我にむかひて光る星あり」と詠んだ時、あるいはハンセン病療養所・長島愛生園の気象観測所主任であった依田照彦が、病に冒されて光を失いつつある眼で望遠鏡をのぞいて「あきらめてゐし眼にかすかに木星の衛星が見ゆるよ一つ二つ三つ四つ」と詠んだ時、確かに彼らは宇宙と語り合ったに違いない。
もしかしたらこの宇宙のどこかには、厳密な意味で人間と対話ができる何かがいるかもしれない。天文学者が明らかにしてきたのは、少なくとも地球上のそれと類似の生命が存在できるような惑星が、宇宙に遍在しているということである。太陽系に一番近い居住可能惑星までの距離は、わずか4.3光年先である。地球外に生きる他者とのファーストコンタクトの日は、人間の歴史の中でも特別な日になるだろう。
例え宇宙人と出会うことがなくても、いつか人間が地球を出て、他の惑星を開拓し、地球上で生命が繰り返し行ってきたように、宇宙の環境を自ら変えてゆく日が来たならば、その時宇宙と人間の関係は新しい段階に入る。物理学者のフリーマン・ダイソンは、宇宙の長期的な未来がどうなるかを考える時、知的生命の役割を無視できないと考えた。曰く、「われわれは、単なる観察者ではなく、宇宙のドラマの俳優なのだ」